物事追及集 二〇一七年九月版
北方「水滸伝 九」「解説」 「九月二十八日」
6日間で十二巻まで読み進んだが、各巻とも結構な重量感(!)がある。
それと併せて、この集英社文庫には、解説(群)が付いていて、それらも“読ませる力作(?)”が多いが、それも嬉しい。
中でも、九巻の「解説 馳 星周」は、読者としての体験・感想という意味で、大変面白かった!
他の解説には、“(一般読者の知らない)情報の紹介”や”著者自身の紹介”などが多いのだが、これには解説者自らが読者となって興奮した様が披瀝されている。
・・・百十を越える北方キャラクターがひしめき合い、吠え合い、死んでいくのだ。
・・・死んで土となり、忘れ去られる。それだけのことだ。ええい、うっとおしい。
・・・そう思いながら、しかし、ページを繰る手をとめることができないこの矛盾。
・・・このでたらめな物語を、北方謙三はどこへ導こうとしているのだ?
・・・読み終えた時はすっかり疲弊していた。これほど読書に集中したのは、おそらく二十代前半、
確かに、このシリーズはのんびり読むには、適さない。ついつい集中して読み耽ってしまう類のものだ。
睡眠時間を削るから、もしかしたら、老齢者には健康に良くない読み物かもしれない。
北方「水滸伝」 「九月二十二日」
先日、見始めた「YouTube」上の中華版動画「新水滸(伝)」が面白くなくて、馴染みのある北方謙三氏の「水滸伝」1,2巻を買って来て読み始めたら、これが何と!とても面白い!
慌てて、幾つもの「BOOK-OFF」を廻り廻って、全巻を揃えた。(図1)
このシリーズは3年前にも読んでいて(図2<クリック>)、その時の感想は、それほどでもなかったようだが、今回は、これが随分面白く感じられる。
(付された解説などによると、)このシリーズは、原本・原作から(かなり?)離れて、北方氏独自の想像力・創造力で再構築した小説らしい。
内容は、多くの人物達が力を合わせて、ある大きなシステムを、徐々に組み上げて行く様として描かれていて、勿論個々には血生臭い、人間臭い話なのだが、全体としては何となく“技術屋好みの話”ではないかと思った。
巻を追うごとに、更なる次の展開・システム拡大に興味をそそられてしまう。
原作の「水滸伝」は、本来なら「梁山泊」の瓦解/崩壊(?)で終わってしまうらしいのだが、北方「水滸伝」の方は、続きがあって、「楊令伝」、その先に「岳飛伝」が続くようなので、愉しみだ!
「楊令伝」も既に一度読んだのだが、また改めて買い揃えたので、じっくり読もうと思っている。秋の夜長は読書三昧。寝る時間が足りなくなりそう!(笑)
もっとウソを! 「九月二十日」
『もっとウソを! 日高 敏隆、竹内 久美子共著 文藝春秋 1997年2月 2刷 ¥1、300税込み』 (購入¥200税込み)
この本、読み始めると、最初はギョッとなる。モンゴロイドxxcm、ネグロイドyycmなどとあるからだ。
でも、科学的・現実的な観点から、静かに読めば、それほど驚く話でもないのだが。
さらに読み進めると、この著者二人は京大・研究室で、師弟の関係だったそうで、馴れ合い的な話などもあり、結構面白い!
この本の趣旨『科学とはウソをつくことである』というのは、あながち間違いとは言えないけれども、もう少し別の言い方は、出来なかったのかな?と思う。
...『科学は常に真実を語るとはかぎらない』といえば、良く分かるのに。
尤も、それも時代や時期、程度の問題であって、“新しい発見”で、それ(科学的な真実)の正・誤ひっくり返ることだってあるから、“ウソ”とか“真実”とかは、実は、別の問題/話になってしまう。
手っ取り早くいえば、「皆が納得すれば、それが真実」だってことで、その“皆の納得(=常識)”を破らなければ、新しい発見は無い!」ってことでもある。
別の話だが、この本の「挿絵」は、意味がさっぱり分からない。眺めてみても別に面白くもないし、特に感じることも無い。
それに、表紙の“背景色”は、気に食わない。裏話だからこんな色にしたのかもしれないが、長く本棚に置いておこうという気がしない“色”だ。
(でもこれ、「BOOK-OFF」では、¥30で買ってくれた!他の本は、どれも¥5なのに! 図2<クリック>)
考古学千夜一夜 「九月十四日」
『考古学千夜一夜 佐原 真著 小学館 1995年5月 6刷 ¥1、500税込み』 (購入¥200税込み)
表題を見て、面白そうだと期待して買って来たのだが、最初の“戦争と平和”の項を読み始めて、この著者/人物の評価を一変に下げてしまった。
...考古研究者として、(政治活動としての)“反核宣言”に参画した、などと書いているからだ。
あほらしくなって、“飛ばし読み”に切り替えてはみたものの、やはり(先入観が邪魔をしたか?)どれも面白くなくて、甚だ、損をした気分だ。
この御仁は、古代から現代に至るまで、人間同士の争いは絶えることが無かったということを、研究によって学んで来たのではなかったのかな?
そして、常に、強い集団や部族、種族が、弱い連中を圧倒・征服・抹殺して、食料や土地を奪って勢力を広げて来たのではなかったのかな?
強い部族になる/で居るために、優れた武器を作り、武力を磨いて、敵を圧倒し、追い払い、抹殺する努力などはしなかったということかな?
多分、現実の生存競争は相当厳しかったろうし、弱い部族群は、強い敵(群)に襲われて、抵抗むなしく消滅して行ったに違いない。
(戦後の日本人のように、)弱い部族が、自らの部族内に不戦・反戦・反核を訴えるだけで、安閑と生き延びられた部族群がどれほどあったか?はたまた、どれだけ消滅して行ったか?などは、調べなかったのかな?
恐らく、彼らが築いていたであろう文化なども、もう痕跡すら残っていないはず。(尤も、無くなってしまったものの存在証明は、大変難しいのが通例だから、そんな追求・探索など潔く捨てた?)
この御仁は、そうした人間の歴史に目を瞑り、(鋭利・強烈な)武器の開発はお断り!という、“単純な反戦・反核運動”に加担するという。誰に向けて“反x運動”をしてんだか。しかも、ご丁寧に、意味・意味不明な提案もしていたらしい。
『考古学研究会では、核兵器反対の宣言などをいち早く三月に出しています。...私はその時、農業が始まって蓄えが出来ると戦争が始まる。もっと端的な表現をすれば武器と戦争は文明の所産である、ということが考古学的に言えることをその宣言の中にうたい込みましょうと提案したんです。そうすると、なぜ考古研究者が非核宣言をするのかという意味も出てくるだろうからです。』
つまり、“戦争は、人間本来の特性から生じるものであり、武器の開発・進化も当然の帰結なんだが、それでも、学者(?)として反戦・反核を提案するんだ”という話らしい。
...謂わば、“日本国憲法に第9条があるから、日本は平和だ/世界も平和になる”というのと同じ「論理の超跳躍・お祈り」をやっているわけだ。
考古学・古代史から、人間とは何かを学んで来たはずなのに、それをこの御仁は、“近視眼的で、何かトンチンカンな結論と行動”にしか解釈(変換・翻訳)出来ないでいるようだ。
なぜ、もっと、過去・現在・未来を俯瞰した大局的で論理的なものの見方が出来ないのかねぇ?
反戦思想や運動などは、歴史的に見ても無効果だった(故ガンジー氏の“無抵抗主義”などは、結局は廃れた)し、もし本当に世界から戦争を無くしたいなら、皆に(出来っこない話だが、ロボトミー手術でもして/させて)“人間本来の特性を捨てるさせる以外に手は無い”っていうことなのに!
現実的な方策のひとつとして、どれだけ巧く“人間の闘争本能を薄めさせながら、戦争をさせるか/するか”を、工夫・提案することだろうと思う。
まぁ、「AI(電子頭脳)」に、世界の政治・経済・文化を全部任せるという“恐ろしい手”もあるわけだが。
明治という国家 「九月十日」
『明治という国家 司馬 遼太郎著 日本放送出版協会 平成元年11月 4刷 ¥1、800税込み』 (購入¥200税込み)
この著者は、「明治」を、新しく出来た「国家」だと観ている。
つまり、それまでの日本は、国民の側からすれば、「国」でも「国家」でもなかったわけだ。
[国民の意識]
実は、国民の側は、“世界と並立・対立する存在(=国)”なんてのは、意識外の物事だったのに、「明治」になって、いきなり「国」としての意識を持つ/持たされた状態になった(目覚めてびっくり状態?!)ということだろう。
だが、昨今の状況を考えると、私達日本人・日本国民は、未だに寝ぼけ眼(まなこ)のまま、半酔夢・半覚醒状態ではないのかな。
その(悪)例が、“(憲法に書いてあるから、)日本国内での自由・人権は、(犯罪でなければ)外国人でも享有出来る”って、(阿呆)地裁が出した判決だ。(昨今では、犯罪者にも人権があるそうな。明らかに限度があるのに!)
そこには、世界の中の「国」だとか「日本国」だとかいった意識がまったく無いらしい。“司法”は「(万民共通の?!)法律」だけしか知らない/見ない/使えないのだから驚く。
[明治憲法とは]
自分達の手で作り出したはずの“明治憲法”を有り難がっていた時代があったかと思えば、戦後は、いとも簡単にそれを捨てて米軍から与えられた“日本国憲法”を、(平和憲法だとか勘違いして)有り難がって、変えようとはしないでいるのは、明らかに寝惚けている証拠!(?笑)
つまりは、「国家」とは何か、「憲法」とは何か、が、未だに良く分からないまま、私達皆が半覚醒状態で走り廻り、あるいは座り込んで居るってことらしい。
この著者は、「明治憲法」は(非難も賛美もしないけれども、)あきらかに“近代憲法”であって、三権の分立が明確にされていて、見事なものだ!と書いて居られる。
また、君主が持っているのは、あくまでも“大権”であって、“実行権”ではないという点や、日本では伝統的に国の執行機関(立法・行政・司法)において、全ての責任が完結するという点などを、指摘されている。
ということは、今の「日本国憲法」は、「明治憲法」の中に、(米軍の要求であった)第9条2項の“非戦闘権(?)”とかいうヘンな条項を埋め込んだものに過ぎないと、いえそうだ。
半酔夢状態の人間には、その違いが良く分からずに、そのまま「憲法」として受け入れてしまったわけだ。
だから、憲法改正を言う人達の中に、“明治憲法に戻せ!”というのも、あながち的外れというわけでもないな!と思った。
それに反対して、“人権とか自由権(?)が減る”と考える人達は、(私に言わせれば、)“デブが、勝手に肥満体の上限値を広げて、自分は肥満ではない!と一人合点/満足しているだけ”の輩と変わりない、と見ている。
晏子 第三、四巻 「九月六日」
『晏子 第三、四巻 宮城谷 昌光著 新潮文庫 平成18年7|6月 14|15刷 各¥590+税』 (購入各¥108税込み)
単行本「晏子」を上・中巻まで読み、その下巻を探していたのだが、5店の「BOOK-OFF」で探したが、見い出せなかったので、痺れを切らして、文庫本の第3、4巻を買って来た。
解説を読むと、実は、晏子の父の安弱とその子晏嬰の二代の物語であり、どちらも優れた内政と外交能力を持つ太夫(大臣)であったと描かれている。
本書の主人公・晏嬰は、三代の主君に、常に諫言をもって仕えたし、王朝内の権力争いからは自らを遠ざけ、いずれの君主からも、憎まれたり、無視されたことはなく、また民臣からの信望も厚かったらしい。
また、外交をやらせても、詐術などを弄せずに成功させて、主君を喜ばせたという。
(今でいう“人徳”があったということか)
中庸の筋を通すという点で、先の華元と似ていなくも無いなと思った。
この第4巻で、「社稷(しゃしょく)」(王朝の守護神)という言葉の意味を、改めて、思い出させてもらった。
「社」は(中華)夏王朝の“水の神”のことで、「稷」は周王朝の“穀物の神”で、周王室が合祀して“地の実りの神”にしたそうだう。
古代中華の国々や(真面目な)君臣達は、自らの「社稷」を守ることによって、国の永続を願い、努めたという。
(尤も、それには目もくれず、自分だけのことしか考えない君主や下臣も、少なくはなかったらしいが)
日本にも、そうした“神”を祭る風習は、今でも残っていて、夏や秋に行われる地域の神々の祭礼がその名残だろう。
・・・ ところで、日本の国としての「社稷」は何だろう?
やはり、“日本の山河や土地の実り”ではないか。(コンクリートの建物や輸入した食物などではないはずだ)
で、それを祭るのは「天皇」であり、「天皇・皇室」は、“国の「社稷」に仕える者”であろう。
当然、私達日本国民も、国民皆の「社稷」を大切に守って行かねば、国が滅ぶ/亡国ということだ。
疎かにしていると、今の朝鮮/韓民族のような(哀れな)“恨の思想”しか無い、“根無し草国家”になること必定だと思う。
“将軍様”や“戦地売春婦”を祭り上げようとする今の朝鮮/韓民族に、人や国として持つべき“誇り”や“矜持”があるとは思えないし、何時までも「国」として存続出来るはずもない。
華栄の丘 「九月二日」
『華栄の丘 宮城谷 昌光著 文藝春秋 平成12年2月 1刷 ¥1、429+税』 (購入¥200税込み)
この本も以前に読んだはずなのに、中味は綺麗さっぱり忘れていた。
だが、今回読んで、この主人公の大臣(太夫)としての在り方に好例を見て、新たな感慨に耽った/浸った。
領土争い・権力闘争に明け暮れていた古代中華の国々の内、その一つ“宋”の国の話で、太夫・華元の考動(考えることとそれを行動に移すこと)が、周りの人々と大きく違っていたことだ。
通常なら、権力の片側に付き、相手方を倒すことばかりを考えるものだが、この華元は、むしろその両方を抑えることを慎重に考え、(両方に対して)手を尽くす。
それは、“中庸を守って静観する”といった“無責任な態度”ではなく、自らも能動的に動いたという点で、優れた治世・政治家であったと思う。
どちらか一方/片側に寄ってしまうと、最悪は殺し合いなどの極端な行為を、止め処なく続けてしまうものだ。
しかし、それは無関係な人々をも巻き込んで、やがては共倒れになるだろうから、避けるべきで、お互いが相手の“悪を認め、我慢しながら折り合う”こと、また、それが可能だと知るべきだ、ということだと思う。
改めて“中庸の実現の仕方”ということを教わった気分だ。