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物事追及集 二〇一七年八月版



古代天皇はなぜ殺されたのか  「八月二十五日」
『古代天皇はなぜ殺されたのか 八木 荘司著 角川書店社 平成十七年一月 再版 ¥1、700+税』 (購入各¥200税込み)

この本には、丁寧な調査・考察と新しい発見があって、大変興味深い!
これまで、常識として、卑弥呼壱与が、大和の天皇家に関係した女性達、つまり天皇家そのものだろうと思わされていたのだが、実は違うという。
彼女達は、大和盆地の北部に(“邪馬台国?/壹国”として)勢力を持っていたが、南から入って来た(将来大和朝廷を成す)勢力が一旦は、南側(今の桜井、橿原付近)に落ち着いたが、やがて北進して来て、彼女達を滅ぼしてしまったと考えるのが妥当だという。
また、昨今の(日本の)学会では、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇まで、ちゃんと「古事記」、「日本書紀」には記述があるにも関わらず、各天皇の“在位期間が異様に長い”ということで、「古事記」、「日本書紀」(の内容の正しさ)を疑い、「欠史八代」として扱っているが、それが(この表題の)“天皇殺しだ”という。
この著者は、各天皇の在位期間の長さは、(現代風暦年法が無かった時代に、)“年の区切り”を春と秋の二度とする風習があったらしい(宗の学者:裴 松之の「魏略」から引用文による)ことから、在位期間を半分と勘定すればよいだけの話だと指摘している。
「古事記」、「日本書紀」の筆者(達)は、“伝聞のまま”を書いているため、わざわざ、倍年か否かを検証したり、修正などはしていないらしい。それを、後世の学者達が、「古事記」、「日本書紀」の“(欠史)八代の部分の記述は、嘘だ”と決め付けているわけ。

この著者は、書かれている内容を丁寧に取り繕えば、“本来存在していた未明の歴史”が明快になるのに、なぜ(頑迷・蒙昧な)学者達は、そこまで深く検証・研究しないのだろうとお嘆きだ。
「古事記」、「日本書紀」では、書かれた内容は、過去そうした事実があって、それを伝え聞いた、だが異説などもあると、真面目に断っているそうだから、意図して(筆者の時代の政権に迎合するような)ウソの作り話を載せたわけでもなかろうという。
つまり、後世の人間には、その(古い)時代には、何に重きが置かれ、何がそうでなかったのかを、丹念に推測・想像する感性を備えていないと、古い歴史はちゃんと読み解けないということだ。



沙中の回廊 上、下  「八月二十一日」
『沙中の回廊 上、下 宮城谷 昌光著 朝日新聞社 2001年2月 各2刷 各¥1、700+税』 (購入各¥108税込み)

先日読んだ「晏子」は、(国)の宰相になった人物の話だが、この「沙中の回廊」で描かれているのは、その隣国・の宰相になった(武に優れた)士会/士季という人物の話。
この士会晏子晏嬰)とは、親と子ほどの“時代のずれ”があり、この二人の重なりは殆ど無かったようだ。

先の「晏子」と違って、こちらの方は、上巻が面白い!
若い士会や従者(そう)達の活躍ぶりが活き活々々と描かれていて、大変愉快だ。(男子向き)
下巻も悪くは無いが、主人公・士会の意に沿わないような、内での政治的な動きが多く、読んでいる側として歯痒く感じられる。
しかも、晋の最高位(元帥)で、また周王室の正卿の地位に上ったが、その後は、70歳で引退するまで、さほど小説にし易い目立つような話は無かった?のか、少し何か物足りない感じ。
尤も、ご当人は、宰相として穏健に国や君主を支えたらしいから、後世の小説の読者が文句を云う筋合いなど無いのだが。



晏子 上、中  「八月一九日」
『晏子 上、中 宮城谷 昌光著 新潮社 1994年11月・12月 各2刷 各¥1、700+税』 (購入各¥200税込み)

この本も、多分二度目だと思うのだが、此の処、宮城谷氏の歴史小説を読みたくて、幾度も(繰り返し)買って来て読んでいる。
先日も、氏の「孟嘗君」5冊を一気読みしてしまったが、その後、「BOOK-OFF」で、この本の上巻と中巻を(再度)見付けて買って来た。
下巻が揃ってから纏めて一気読みしようと、下巻を探していたのだが、なかなか見付からず。

その内、焦りが出て来て先に読み始めたのだが、上・中巻は、当の晏子晏嬰)が活躍するまでの話が多く、それを読んでしまうと(下巻にありそうな)肝心の話が、お預けになってしまっている。
結局、下巻を急いで探さねばならない状態だ。

でも、この類の(中古)本は、先に読まれた方(読者)の放出時期まで、じっくり待たないと出会えない辛さがある。
だから、全巻揃っている時に、全部纏めて買い込んでおかないと、今回のように、失敗に近い買い方/読み方になるわけだ。
...そんなことなら、「BOOK-OFF」へ出さずに、ずっと手元の本棚に置いておけばよいのだろうが、それでは、刺激が少なくなるだろうと思う。
本棚に置いておくと、そこの存在するという安心感からか?再度手に取って読む機会が少なくなるからだ。
現に、「なぜビッグバンは起こったか」や「時間について」、「仏教の勝利」、「憲法十七条」など、“読み直し”をしようと棚に飾ってあるのだが、なかなか手が出ない。
これらも、買って来た時は、相当気合を入れて読むのだが、その後は、棚に置いたままになっている本も多い。
...だから、私の場合、読むべき“棚の本”は、飾っておいてはダメで、常に“新陳代謝”をさせないといけないようだ。



そうだ、葉っぱを売ろう!  「八月一日」
『そうだ、葉っぱを売ろう! 横石 知二著 ソフトバンク・クリエイティブ 2009年6月 8刷 ¥1、500+税』 (購入¥200税込み)

四国の老人ばかりの田舎町から、料理に使う葉っぱを市場に出して、年に一千万円以上売り上げを上げる農家もあるという話を聴いたのは随分前だったのだが、偶々、先日「BOOK-OFF」でこの本を見掛け、買って読んでみた。

聴いた話では、ほんの上っ面だけだから、老人達、特に“老婦人達の活躍”と巧い“町興し”が成功したんだなぁと単純に思っていたのだが、どうも、そんな生易しいものではなかったようだ。
この著者=横石氏が、全身全霊を傾けて、世の中を駆け回り/調べ廻り、そして丸で機関車の如く皆を/客車を引っ張って行かなければ、到底、成功など出来なかったビジネスだったと知った。

その成功体験を知ろうと多くの人達が訪れたそうで、それに対して、この著者は、“そこまで詳細情報を話されても良いのですか?”と驚かれる程、詳細に話されるそうだ。
それは、この本を読めば、その意味が良く分かる!
そん所そこらの人間が、この人物のやり方やそのビジネスを真似をしようたって、そう簡単に出来るものではないからだ。
多分、この人物=横石氏は、恐らく何万人に一人居るか居ないかと言うくらい、“稀有な人物/人材”だから、聴きに来るような人達の程度では、とても真似出来ないだろう!

現に、その横石氏が、一度、この事業から離れられたら、途端に売り上げが降下し始めたそうだから、やはり、こうした“優れた牽引役”の居ない“葉っぱビジネス”は、成り立たないということらしい。

ふと思ったのは、後継者の育成の方はどうなっているのかな?ということ。
ご当人よりも、むしろ、周りがそうした配慮・考慮を、何故して来なかったのか、来れなかったのかが気になった。
まぁ、株式会社組織にしたそうだから、嫌でも次期経営者は、想定/設定しなければいけないだろうけど。



科学嫌いが日本を滅ぼす  「八月一日」
『科学嫌いが日本を滅ぼす 竹内 薫著 新潮社 2011年12月 1刷 ¥1、100+税』 (購入¥200税込み)

この本の表題「...日本を滅ぼす」とは、また大仰な言い方だなぁと思いながら読んだら、何のことは無い!
“読者の皆さん!(世界の)科学的な話題に興味や関心を持ってくださいよ!そうしないと、私のようなサイエンス・ライターの書く本が、売り難い/売れないんだから、困るんですぅ!” ...てな感じ...でもないかな?(笑)

別に、日本が滅びるなんて話が書いてあるわけでもない。
科学全般に関する(雑誌「ネイチャー」や「サイエンス」に纏わる)事件や話題を、至極真面目に取り上げて(分かり易く)紹介している本だ。
それらは、それなりに面白いが、過去の話だから、これから、私(達)の役立つかどうかは、湧いて来る意欲次第かも。

それにしても、この中の記述を拝見していて、思い出しても腹が立つのは、この著者も指摘している昨今の(世の中の市民団体の云う、時には地裁までもが調子に乗ってやっている)“後出しジャンケン”の風潮のことだ。

この著者はこう書いている。
『「想定できたはずの人災」は後出しジャンケン
日本のマスコミで、いま流行っているのが、今回の大地震と大津波を「想定できたはずの人災」にすり替えようという動きだ。脱原発・反原発の市民団体が、これまで何度も東京電力に「地震や津波で原発が破壊される可能性がある」と、申し入れをしてきた、というのである。つまり、原発事故は、誰でもが想定できたはずであり、人災だというのだ。
一見、もっともらしいが、この報道姿勢には大きな問題がある。...
そもそも、本当に市民団体は今回の津波による原発事故を「予言」していたのだろうか。
...
現実的に考えれば、想定というのは、必ず、どこか線を引かざるを得ないものなのだ。...
社会全体で議論して決めていくべきだと思う。


要は、原発反対の市民団体は、その理由を、何が何でも“人災だ!”とするわけだ。
また、自然災害の被害者達の一部の連中は、本来なら、黙って忍従すべきことでも、相手(自然)を人間にすり替えて、人を攻撃して憂さ晴らしをしたいという話にもしてしまう。あわよくば、賠償金などをせしめられれば、それに越したことは無いし。(軽蔑!)
それをマスコミ/マスゴミ連中が、大きな話題にして、自局、自紙の視聴率や購買数を上げるのに、やたら血道を上げる。

いずれも、ちっとも科学的なセンスが無い話で、もし予想が当たらなければ確率0%であったにも拘わらず、起きてしまった事件・事故を、“当然、確率100%だったはずだ!”と言い張るわけだ。
“ナンセンス”というより、“愚か”と言うべきか。


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