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物事追及集 二〇一七年十二月版



おお、大砲  「十二月二十九日」

『おお、大砲 司馬 遼太郎著 中央公論社 昭和48年8月 6版 定価¥500』 (購入¥200税込み)

この本は、昔の有名人、あるいは、あまり知られていない物事の“下世話/世間話”を纏めてあって、なかなか面白かった。

特に、最後の章の、徳川家康が和蘭船の船長から買った大砲が、大阪冬の陣で使われ、最後に、大和・高取藩に払い下げられた(受け渡された?)後の話は、傑作!
後の維新前夜の争いの際、高取藩が撃ったその大砲(「ブリキトース」と呼ばれた)の弾に当たった侍が、実は「頭に喰らって、三日三晩、耳鳴りがして眠れなかった」と溢したのを、撃った側の侍が聞いて、驚くやら嘆くやら...というのが、読んでいて何とも言えず、つい笑ってしまった。

この大砲を預かった高取藩だが、その青銅砲の機能や性能の分析などは勿論、改良などは一切せず、ただ、只管奉って保管していただけだそうだ。
いざ使う段になって、扱いを任された侍が、慌てて調べ直すといった有様で、日本人の道具・武器に対する“能無しさ”が良く分かる逸話だ。

そいや、先般も、“防衛庁が募集する(基礎)研究は断る。戦争道具の研究はしない”という日本学術会議・執行部連中の頭の中も、きっとそんな程度なんだろうなと思う。
また、先日、教育関係の研究会で、“教科書に載せず、試験問題にも出さない語句”というのを選別したらしいが、これの根源には、“無知は無知(アホはアホ)のままでいい!”という思想があるようで、甚だ嫌らしい。
彼らが教育というものを考えているのなら、なぜ、もっと前向きに、“無駄だからと捨てないで、増える分を加えて、より知識が豊富になるよう、努力・工夫をする”ことをしない?...なぜ、増え過ぎたから削って新しいのと入れ替えるって勝手に判断するのかねぇ?(知識は、)得る側が、自分で取捨選択出来る様に、たっぷり用意しておかねばいけないものなのに!
研究会の連中は、自分達がすべき仕事が分っていない?か、はたまた(昔の)“よらしむべし、知らしむべからず”を自分達もやってみたいという不埒な企みか!?と詰(なじ)りたくなる。



光圀伝  「十二月一五日」

『光圀伝 冲方 丁著 角川書店 平成24年9月 再版(1刷?) 各¥1、900』 (購入各¥200税込み)

この著者の「天地明察」は、大変気に入って保存版として書棚に残してあるが、この「光圀伝」もそうしたいと思っている。
「帯」に書かれた賞賛の文言通り、“傑作”だと思うが、確かに、読んでいて飽きない。そして、つい引き込まれてしまう。

本の中身だが、まず、私達が何時も見せられている、「この紋所が目に入らぬか?!」の“水戸の黄門様の話”では、ついぞ知ることが無かった、光圀公の若い時代の生き様が描かれていることだ。
そして、そのポジティブアクティブな生き方は、同じ時代(徳川家二、三代目)の人達からも好ましく思われていたようだが、時代の違う私達の時代でも、望ましい生き方として十分受け入れられるものだ。
私(達)自らの反省・指針として、自分の能力や環境がどうであれ、兎に角、自分なりに「ポジティブ」で「アクティブ」に生きるべきだ!と思っている。

それにしても、昨今、一部の韓国人やシナ人達による”韓国人戦地売春婦像”の建立運動が、激しさを増しているらしいが、あんな“ネガティブ”な“アクティブ”さなどは、願い下げにしたいものだ。
しかも、勝手に加害者を日本人/日本軍人に仕立て上げて、自らを大袈裟に被害者だと喚き回る。
その様は、(車への)“当たり屋”そのものだ!

先日、吉村大阪市長が、(韓国人売春婦像を公共施設にするという)サンフランシスコ市との姉妹都市提携を解消すると発表したが、それに反対する(ネガティブな)大阪市議連中も居るらしい。
...その連中は、大阪市の日本人達から、見放されればいい!当然、次期選挙では落選だ!
(ただ、大阪人の多くは、日本という土地に住んでいながら“我らは日本人だ!”という意識が薄いらしいからなぁ)
光圀公の墓地の周りの土でも煎じて飲ませたいものだが!



韃靼疾風録(上、下)  「十二月一日」

『韃靼疾風録(上、下) 司馬 遼太郎著 中央公論社 昭和63年3月 8刷、6刷 各¥1、600』 (購入各¥200税込み)

確か、この本も、以前に読んだことがあるはずなんだが、その記録も見付からないし、内容の記憶も殆ど無い。
そのことが、支障になるのではなく、反って新鮮な気持ちで読むことが出来た。

この本は、やはり面白い!
好きな作家の一人、司馬遼太郎さんの本だから...というわけでもないと思うが。 (いや、それも関係するのかな?)
読んでいて、一行々々一言々々に、何の抵抗も感じないし、むしろ、私の“思い/想像の行く先”を示して貰っているようで、甚だ心地良い♪

無骨で、それでいてバカでも、うすのろでもない一人の武士:主人公−桂 庄助が異国(主に、女真族)の地で、日本人武士代表のような扱いを受けながら、静かに活動する様子が描かれている。
兎に角、主人公自身は、しっかりした“主体性”を持っていて、世の中の動きにそのまま振り回されないで、だが、それに応じた自分なりの動きをする様が描かれていて、読んでいて安心感がある。

途中で“挿絵”に気が付いて、なかなか上手な/巧い“絵”だなぁ!と感心していたら、どうやら著者自身の手になるものらしい。(図2<クリック>
無駄な線が無いし、挿入文字も見易くて丁寧だから、(今様に言えば)“癒される”って感じ。(苦笑)

この本を読んで思ったのは、昔読んだ司馬氏の著作は、そろそろ中身を忘れた頃だから、また読み直しても良いな!と。


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