導育甘言集 2014.02 [我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ [表紙頁]へ
子供の遊ばせ方 [0229]
先日、あまり遊具の無い城址公園で、孫達(4歳と1歳半)を遊ばせていた時に気が付いたこと。(ここには、幸い、当日は無人の「舞台」があったので、その上で走り回れたのも良!)
私達大人は、遊具などが無いと、楽しく遊ばせられないと思いがちだが、実際はそうでもない!
「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」(の変形)が上手くやれれば、結構“キャーキャー♪”叫びながら、子供(達)自身は楽しく遊べるようだ。
こうした遊びは、大人が直接付き合って、追っ掛けたりしてやらないと、一人二人では賑やかには出来ないだろうと思っていたのだが、ちょっと大人側で工夫をしてやれば、(一緒に走り回らなくても)子供自身で、それらの組み合わせで、楽めるのだ!
大人側の工夫とは、子供(達)が躓(つまづ)いて転んでも直ぐに助け起こさず、自分で立つまで、可笑しそうに囃したり、立ったのを誉めそやすとかしたり、(ちょっと追い掛けては、)子供(達)がす早く逃げるのをヤンヤと褒めてやると、実に楽しそうに逃げ回るのだから、大人側はそれほど疲れないで済む。(まぁ、気疲れは別だが。苦笑)
要は、子供(達)は自分が走り回るのを、親達が、関心を持って是認しながら見守ってくれ、声を掛けてくれるだけで、楽しくなれるのだ!
ところが、左上写真(別場所、別日)にも見られるように、親達(特に母親達)が、子供を自分自身から手放さないようにする傾向がある。
どうも、こうした親達は、危ないから(?)子供(達)を単独では歩かせられないと、思い込んでいるらしい。
だが、それは間違っていると思う。 ... 自分の焦燥感や不安感を、手から子供に伝えているだけで、子供にとっては迷惑なだけなのだ。
また、よく見掛ける風景だが、親が黙々とスマホを触っているのは、子供にとっては、全然楽しくない状態だ!
よちよち歩きの子供なら、“ほら!あそこまで、歩けるかな?頑張って歩いてごらん!...わー凄い!良く歩けたね!凄い凄い!...じゃあ、ほら、今度はあの柱まではどうかな?”って、大人の自分が行きたい場所にまで、誘導して歩かせるのがよいと思う。
もし、楽しませるなら、一緒に並んで駆ける振りをしながら、ワッショイ!ワッショイ!などと掛け声を掛けてやれば、声を上げながら、よちよち(よたよた)歩くことは間違いない!(...ま、昨今の親は、そうまでして子供を楽しませてやるなんてことはしないかもなぁ...)
指導力 [0227]
『指導力 [宋名臣言行録]の読み方 山本 七平著 日本経済新聞社』 承前
この本を読んでいると、“仮名交じり漢文”が沢山出て来るので、難しいやら興味深く感じるやらで、なかなか進まず♪(でも、少々の坂道なら、自分への挑戦だと思ってえっちらおっちら頑張るのも癖だ!しかし、これは慣れないと解読し辛いなぁ...)
曹淋という名宰相・名将が言った言葉に、こんなのがあるそうな。
『吾、将となりてより、人を殺すこと多し。然れども未だ嘗(かっ)て私の喜怒を以って輒(たやす)く一人を戮せず』
これを、単に“武人の在り方”と見るか、“人(間)としての在り方”と見るかだが、私は、現代の民主主義社会では、(公私を混同しない)“専門職の在り方”と見るべきだと思う。
ここで、また、NHK会長籾井氏の言辞に対する“(マスコミが作り出した)周囲の雰囲気や態度”を思い出してしまったのだが、こうした、“公私を厳しく分ける姿勢”を否定する今様の考え方には、強い不快感を覚えてしまう。
やはり、世の中を正しく導く?在らしめるためには、(職業人でなくとも)公私を混同させてはいけないし、味噌(公)もクソ(私)も一緒くたにして物事を扱うのは、決して皆にとって良いことではないと思う。(モンスター・ペアレンツなどに見られる“教職”への横車なども、その悪例だ)
指導力 [0225]
『指導力 [宋名臣言行録]の読み方 山本 七平著 日本経済新聞社 昭和61年1月 1刷 \1,000』 (購入\500税込み)
何時の時代にも、優れた指導者(多くは、名君)と実力のある補佐役(宰相)の組み合わせが、その国の平和と安寧、豊かさをもたらすもののようだ。
しかし、それが数世代続くことは稀で、やがてはその没落と乱世、そして新興勢力の勃興となるのが世の中の(繰り返される)歴史らしい。
そうした流れを見ると、現在のような平和な民主・自由主義社会でも、やがては、没落して行くのは必定だろう。(今の日本国庫の膨大な負債額は、誰もどうにも出来ないほどに膨れ上がっているから、只では納まらない!)
そうした状況を立て直すには、やはり荒療治が出来る優れた指導者や宰相が、必要だし、欲しいと思う。(ま、日本は成るようにしか成らぬだろうから、多分、少数の外国人大金持ちと大多数の日本人極貧者達に分かれる!かな?)
昨今の状況を考えると、私達日本国の代表者(首相)を選び出すのでさえ、自分達の眼力の無いこと甚だしいのも、現実だ。 ...それは、先の民主党政権で露見してしまった。 ... 嘘マニフェストへの夢想(期待)だけが先行して、その党派の「本質や実力」を見抜けなかったわけだ。(それが、拙いことに、未だ国会に“何でも反対屋”として居残っているのだから、余計に始末が悪い)
昔は、有能者・実力者達が「指導者」として、日本を引っ張って来たのだが、今は無能力者でも党派の都合で代表者に成れるし、間違って国の指導者になってしまうこともある。だから、私達一般庶民・市民は、民主主義だからって、救われるわけではない!
安穏としていると、私達自身の首を絞められて行くのを、感じる。
(卑近な例では、大阪などで、電車から降りる客を無視して、無理に乗り込んで来る連中が多くなっているが、こんなのがどうして、まともな民主の世の中なもんか!それに、正論を発言したNHK会長の揚げ足を取るマスコミや、挙句に罷免まで要求する(権利があると思ってる?)市民団体がしゃしゃり出て来るって、一体どういう世の中なんだ?)
ひらめきは... [0223]
『ひらめきはどこから来るのか 吉永 良正著 草思社 2004年5月 1刷 \1,600+税』 承前
私達の日本国は、ここで言う「消臭社会」になり始めてから久しいが、近頃はつとに、それが酷くなった感じがする。
その傾向が、一般社会の中に留まっているなら、問題は少ないのだが、次第に専門分野、職業にまで広がって来ているのは、甚だ危険な兆候だと言えよう。
昔、良く使われていた言葉に「プロの技・業」とか「プロの仕事」といった、専門技能を持ち、優れた仕事が出来ることを意味したものがあったが、残念ながら、今ではその意味が、殆ど通じないようだ。
例えば、先日安倍首相が国会で「私が、その問題の責任者です!」と発言した事ですら、攻撃のネタにしようとしている日本の陣笠議員連中や、米国の(敵性?)ジャーナリストが居るが、これは“プロ意識”というものが分かっていず、無思考の不平等感(?)が「消臭社会」全体に広がっているからだと思う。
陣笠国会議員達が、「国民の代議員」であり、首相はその中から選んだ|選ばれた(自分達が盛り立てるべき)「日本国の代表者」であるという認識よりも、“自分も同じように、プロの仕事が出来る者 ”であるかのような錯覚に捉われているせいでもあろう。
(はっきり言えば、陣笠連中は、実力が伴わないのにプロの振りをしているってことだ。それは先般の民主党政権の時に、バレバレになったはずだ)
その逆に、“責任者が自分の職務や責任を明言”したり、“職務以外の自分の思想を披露”すると、(陣笠連中は自分達の)「消臭社会」からはみ出した!と感じるってわけだ。 ... これは、例の“ほら、みんな一等賞よ♪”という似非民主・平等主義教育の弊害だと思う。
今日本・日本人が気付かないといけないのは、周辺国や外国からの攻撃に曝されていて、その中で日本国民が真面目に生き延びなければいけない状況にあるってことなのに!...だが、外国から“そんな考えは右翼思想だ!”と詰られ攻撃されると、一緒になって囃すバカタレたちも多いのが現状。
ひらめきは... [0221]
『ひらめきはどこから来るのか 吉永 良正著 草思社 2004年5月 1刷 \1,600+税』 承前
...この本、というかこの著者の表現には、至る所で愉快にさせられる。・・・ 大変、面白い!ということ。
多分、私との相性が良いのかもしれないが、喩えとして挙げられている文章には、“いちいちご尤も!ご尤も!”と頷(うなづ)けるのだ。
例えば、「知的好奇心」は通常の人間として必須のものだが、流行を追っ掛ける「痴的好奇心」は一種の病気≒風邪だそうだ。(笑 ... おっと!私自身も、パソコンでは“追っ掛け”の仲間だから、紙一重で、安閑と笑っては居られないのだが)
しかし、「知的好奇心」を「がん」と同相(関係の同相性)だとは、大胆な比喩だと思う。
まぁ、あまり「好奇心」を持たない通常人から見れば、こうしたものは(煩わしい)一種の「ガン」と見られなくもない!かな?
だが、そんな比喩はともかくとして、子供達が持つ健全な「知的好奇心」は、押し潰さずに、ぜひ大きく広げ伸ばしてやりたいものだ。
それに対応する大人達が、下手に自惚れを持たず、(何でも大人が教えたがろうとせずに)謙虚に支援してやれば、有意義な方向に伸ばす方法は色々あると思う。
ただ、この著者(達)は、「知的好奇心」の「ガン」類似性から、程々の処で抑えないと危険ではないかと考えて居られるらしいが、私は、それは今の日本人にとっては、杞憂だと思う。「がん=痴的好奇心」は旺盛のようだが、「知的好奇心」の方はかなり不足気味だから、むしろ積極的に増殖させるべきだと思う!
ひらめきは... [0219]
『ひらめきはどこから来るのか 吉永 良正著 草思社』 承前
私は、「ひらめき」は、自然の中に多く(膨大に!)包含されていると思うのだが、この本でも、「人間のひらめき」を(自然現象の)「物質の相転移」などになぞらえている。
例えば、(冷やされて)過冷却状態の水が、いきなり氷の変化する様子に似ていると言われると、なるほどそうか!と納得出来る。
こうした「ひらめき」は何の緊張や努力無しには得られない!と思うのだが、以前、ある映像で“あまり、学校で勉強などしていない(フーテンの?)女の子の方が、(思い付きで)ユニークなデザインを考え出せる!”とのコメントを聞いて唖然とした事がある。
しかし、考えてみると、“レベルの高低やその質”を問題にしなければ、トンチンカンなデザインでも、“ユニーク ”だって云えるわけだから、あながち間違いではないのかも。(苦笑)
でも、あまり“ユニーク過ぎる”のは、(現時点での)私達に快感をもたらさないから、やたらに創り出してもあまり意味が無い。
いずれにしても、“緊張感の無いだらだら状態”の中から出て来るものに、「ひらめき」や「きらめき」などは無いと断言出来る!
実は、この辺りを読みながら、先般の『万能細胞』の話を思い出していた。 ... あれで、小保方女史の割烹着に憧れる女性が増えたそうだが、一体彼女達は何に“ひらめいた”のだろうか?(...内緒の話だが、彼女達が勢力を広げて来るなら、日本の化学・科学技術の将来は暗いと思う)
ひらめきは... [0217]
『ひらめきはどこから来るのか 吉永 良正著 草思社 2004年5月 1刷 \1,600+税』 (購入\200税込み)
「ひらめき」とは何かを考え尽くす前に、大変興味深く、面白い記述があった。
『機械(コンピュータ)も、動物もひらめかない。
また、神にもひらめきはない。もし神がひらめいたとすれば、ひらめき以前には神は不完全であったことになり、これは全知全能にして完全であるという神の本姓に反するからだ。
めくるめきひらめきのきらめきは、だから人間の特権である。...』
確かに、その通りだと思う...まぁ、神さまがひらめけないというのも、甚だお気の毒な気もするし、機械が火花を散らしてきらめいたら即死を意味するわけだ。(笑)
私は、人間が考える“偉大な神さま”などよりも、それを包含する“自然”の巨大さ、無限さの方が“多様なひらめきを、自らが内蔵している”と思うのだが。
例えば、地球上の動植物の多様性など、そんじょそこらの神さまには、とても考え付けないのではないかと思う。
この本は、詩が出て来たり、昔の居士の語録が出て来たりと、あっちへフラフラこっちへフラフラと、“分子のブラウン運動”のように取り留めがないようにも感じられるが、それでいて「考える」とは何か?「ひらめき」とは何か?というテーマから左程遠く離れることも無い。
つまり、目標はしっかり見定めて居ながら、程良くふらついているものと見た!
「目的」よりも、「方法」にばかり拘る今時の風潮を、軽く皮肉っているかのようで、何だか愉快♪
この本には、啓発されることが多くありそうな予感がするので、最後までちゃんと読んでみようと思う。
中原を征く (2) [0215]
『中原を征く チンギス・ハーンの一族(2) 陳 舜臣著 集英社文庫 2000年5月 1刷 \724+税』 (購入\251税込み)
この巻の始めの方に、また耶律楚材が出て来る。
この人物の伝記小説は、別途読んだことがあるはずなのに、あまり意識していなかったことが、ここではパッと現れた感じで、改めてヘェー?と思ったことがある!
それは、この人物が巨漢で、美髯(びぜん)で、声も大きく良く通ったらしいことだ。
チンギス・ハーンから信頼され、何かにつけ多用されたのも、“人徳”だけでなく、そうした特質も一因だろうと思った。(寄らば大樹の蔭!とかで、底墓(そこはか)の安心感も得られたに違いない)
逆に、「小柄」でも能力があれば“良し”とされること(昔の日本の武将や参謀≒黒田官兵衛なども小柄)もあるだろうが、やはり、「大柄」からは、無意識的・本能的に“人間の度量・器量”を感じるものなのだろう。 ... だから、決して疎かに、考えてはいけない「特質」だと思う。
日本では、昔から“子供達の体格”には至って無関心、むしろ皮肉的(例えば、「大男総身に知恵が廻りかね」だとか)な見方しかしなかったようだが、現実の世界では(暗黙的に)重要な意味を持つから、(“肥満”は愚だが)「大柄」は、子供達に「備えさせたい資質」だ!と思った。
(身体を作らねばならないから、朝食抜きなど持っての外だし、少しでも多く運動をさせ、体躯を大きくさせよう!)
風塵抄 二 (四) [0213]
『風塵抄 二 (四) 司馬 遼太郎著 中央公論社 1996年5月 1刷 \1,200+税』 (購入\105税込み) 承前
「若さと老いと」の項で、この著者は面白い分析をして居られる。
日本では、仏様や仏閣は古いままの方が“神聖感”(?神秘感!)があるが、他のアジア各国では、常にピカピカにしておく方が“信仰心が厚い”と看做すらしい。
(そういえば、大方の日本人は古い|旧いものを大事にする傾向が強いが、“そのまま朽ち果てるのもよし”とする投げ遣りな面もあるなぁ)
一方、「日本では、神々は若さをよろこぶ」と、著者はいう。
だから、各地の神事の多くは、常に荒々しく、若者達も「若さ」を張って、命懸けでそれらに参加するのだそうな。大阪・岸和田の「ダンジリ祭り」などは、確かに、命懸け!
神道については、「日本人の自然に対する畏敬がそのまま凝って神道になったといえる。従って教祖も教義もない。強いていえば、清浄というだけのことである。任意の場所を浄めてきよらかに斎(いつ)きさえすれば、そこに神が生(あ)れる」
...日本人の“年初めの初詣(はつもうで)”は、その年を“身を清める”ことから始めようとする気持ちに他ならないと思う。
(日本政治家の靖国神社参拝に、シナ|中国などからいちゃもんを付けて来ているが、それは日本人の自然に対する清浄な畏敬心や静かな自省を、愚かな餓鬼どもがギャアギャア騒いでなじるがごとき、甚だ醜悪な行為なのだ。 ... が、それが分からない(日本人)マスコミ記者・編集者連が増えて来ているのも現実らしいが、困ったものだ)
シェールガス革命で [0210]
『石油からガスへ シェールガス革命で世界は激変する 長谷川 慶太郎、泉谷 渉共著 東洋経済新報社 2012年12月 1刷 \1,500+税』 (購入\200税込み)
この本は、今(2014年2月)から約1年半前に書かれたもので、如何にもホット!
ここでは、既に“再生可能な自然エネルギーの不経済性”と“ガス・エネルギー見直しの必要性”について指摘されているが、この見方は大変重要だと思う。
私達は、よく誰かが“醸し出したムード”だけで、(例えば、“火力発電は煙害が多いから、水力発電の方が良い!”だとか、“やれ石油は排ガスが多いから即廃止せよ!”、“原発は危険だから、即廃炉にせよ!”だとか、)“結果・結論”を急ぎ過ぎるのだが、それも愚かな話。
今でも、世界には日本の火力発電技術を買いたいと思っている国もあるそうだし、原発技術だってそうだから、即時廃止論などは、実は“何も考えていない”に等しいわけだ。
そうした叫び(?例のシュプレッヒ・コール!)は、色々な利害得失を考えながら、今の(日本の)技術力や(世界の)消費力を勘案した上でやろうとしているわけではないから、甚だ始末が悪い。
それに対して、この本では、今の「世界のエネルギーとその源、その利用」を俯瞰し、国・地域毎で何が有用か、今日本は何を重視すべきかについて書いてあって、大変参考になる。
米国先行で進んでいる「シェールガス」の今後の有用性についても書いてあるが、やはり、(残念だが)日本は“エネルギー大国”には成れそうに無いが、それよりも、「日本の技術」を売り物にする方が有望だと読めた。
そして、日本は、“世界や日本の「エネルギー源」をそれに切り替えて行く(後押しをする)態勢を早く整えよ!”というわけだ!
(至って効率の悪い“原発即時廃止や自然再生可能エネルギー利用”の運動をする暇があったら、私達日本庶民・市民皆が、早くこうした「費用効率の良い新エネルギー源」を勉強して、それの活用運動でも始めるべきだろう、と思うが)
草原の覇者 [0208]
『草原の覇者 チンギス・ハーンの一族(1) 陳 舜臣著 集英社文庫 2000年5月 1刷 \705+税』 (購入\105税込み)
チンギス・ハーン(成吉思汗)の話は、これまでにも幾冊か読んで来た記憶があるので、本当は食傷気味のはずなんだが、著者が違うと中身も違う...という事を、これで痛切に感じた!...これも、面白くて、興味深い!
つまり、一人の(英雄)人間の生き方を、(今まで露になっていない)別の面からも描いてあり、その人物の強さや弱さなども、良く分かるから。
人間のそうした色々な面を知ることによって、今の自分だけでなく、子供達をどう眺めながら、どう育てれば良さそうか、を考える参考になる。
今、私は、子供達を「賢く、強く、優しく育てること」を狙っているのだが、無理なら、せめて、“(我を張ってでも、ただし周りのことをよく観察して、)必ず生き残れる強い日本人”に育てたいと思っている。(それの多くを、今の政治家達に託さねばならないことが歯痒いが、自分でやれることは、やるつもり!)
(“常識的な平凡人”でいいわ!なんて思ってると、最後は外国人のペットか、あるいは潰されてしまうだけ!...こうした考えは、某新聞紙らによれば、右翼思想↓↓だな。きっと。苦笑)
風塵抄 二 (参) [0206]
『風塵抄 二 (参) 司馬 遼太郎著 中央公論社 1996年5月 1刷 \1,200+税』 (購入\105税込み) 承前
この本の中に、『自我の確立』という項がある。
私も、この歳(老年)になって、やっと自分の「自我の確立」が出来始めたように思う。
(多分、他の人がそれを聞くと、とても信じられない話だろうと思うが)
色々考えると、この「自我」というモノの中には、自然に備わった“生物の本能”と、その周りに在る“集団の意思”との“せめぎあい”で決まる“安定な精神状態”が含まれているように思う。
そして、見廻すと、意外に多くの人達が、今の世の中の周りに押し潰されて、自分の「自我」を無くして居られるではないかと思う。
例えば、公の場で何か“自分の考え・思想”を披露すると、途端に、周りから激しく非難されるか、無視されるから、つい、無意味に謝ったり、黙って引っ込めたり、あるいは出さなかったりしてしまうケースが多い。
近々の悪例は、朝日新聞Digital(2014年2月4日)都知事の応援演説の話で、この朝日新聞は憲法破りの名人達だが、この迷・冥人連中は、「憲法で保証された個人の思想の自由」(自我の存在)を無視・侵食しながら、「(下司の)集団の思惑」に従うことを要求している。
似たような例で、毎日新聞(2014年2月5日)NHK経営委員:新聞社内拳銃自殺事件を礼賛の話で、『メディアへの暴力による圧力には全く触れず、刑事事件の当事者を擁護したと読める内容』だとか(?はぁ?)で、NHK経営委員を、毎日新聞紙の私用用語満載 で非難・罵倒して、「思想の自由」なんぞ我らマスコミ様が許さないぜ!と凄んでいる様子が良く分かる。
つまり、昔あった、「自我」に基づく“規律のあるプロ意識”(自と他、私と公をきっちりを分けられること)が理解出来ず、自分達がよくやる“軟弱扁平性(ペラペラで裏が透けて見える)”(私製語:公私混同も平気で、知らない・面倒だ・疲れる・可哀想ぉ・悲しいぃと云えば、“手抜き仕事”や“自堕落仕事”も許されるの意)を示し、“あんたも、そうすべきだ!”と、ほのめかしているわけだ。
別の例だが...先日、切符売り場で並んでいると、一人の老人が列の前にすっと横入りして来たことがあった。
まぁ、普通は、黙って見逃すのが“常識”なのだろうが、私はたまらず、“もしもし!後ろに並んだら?!”と声を掛けてしまった。
誰も余計な事は云いたくない気持ちが強いのだろう、積極的に“ダメですよ!”って声を掛けないのが“今時の集団マナー”らしい。(苦笑)
で、ご当人の代わりに入れ替わってやろうかと声を掛けたが、ブツブツ言いながら、駅の別側の改札へ足早に逃げて行ってしまった。やれやれ...
社会の中では、大人同士が是々非々で言い合いや行動をしないと、良い子供達を育てることは出来ないと思う。
でも、現実には、“生物本能”や“集団への従属意識”の方はあっても、“社会の中の自分(自我)”を意識している人達は、少ない気がする。
それが、次第に子供達にも蔓延して、折角、学校で教わって来た“良いマナー”も、自然消滅して行っているのが、惜しい|悔しい。
MS-DOSハンドブック [0204]
『MS-DOS データ活用ハンドブック 編集部編 技術評論社 1988年4月 2刷 \2,600税込み』 (購入\2,600税込み)
アセンブリ語でプログラムを作る際、ハードウェアとやり取りをするためには、どうしても、MS-DOS内で用意されているソフト・ツール(割り込み処理)を使わせて貰う必要がある。
もう、それには、こうしたハンドブックを見ないと、とてもじゃないが(淡い記憶頼りだけでは)使えたものではない!
手元のこれ(左写真)は、そろそろ痛んで来ているので、予備のものをBOOK-OFFで探しているのだが、やはりとっくに旬が過ぎているので、もう見当たらない。
もしかしたら、通常の大型書店なら置いているかもしれないが、そんなのは一種の骨董品だろうし、値段も高かろう。
インターネットを探れば、奇得な方達がアップされた情報などは得られるが、やはり、「本」と「ネット」とではそれぞれ得失がある。
「本」だと、名称は忘れてしまったが、“確か、この辺りにあったはず?...”と探し出せるのだが、「ネット」だと幾ら検索しても、上手くヒットしないことが多い。やはり、こうした技術書は、極力(丁寧に)保存しておくべきだな!と思った。(苦笑)
万能細胞 [0202]
この“新しい発見”は、確かに、先駆的な偉業だと思う。
ただ、多少ヤッカミ半分(?)でいえば、彼女の発見は、単なる「一手法」、つまり一つの「特殊解」なのではないか?と思うが、どうだろう。(さぞかし、特許が出し難かったのでは?)
(...一種の「コロンブスの卵」の「卵」だけなのかもしれない)
特に、“原理”となるような「理論(仮説)」があって、その“原理”によって、“理論の裾野”が大きく広がるというものでもなさそう。
謂わば、現存するものの中から(絨毯爆撃的でなく、ピンポイント式に)探し出す“帰納法(?)的スタイル”であって、「仮説(理論)」はこうだから、こうすれば、こんなものが出来るはずだという(無から有を創り出す)“演繹法(?)的スタイル”ではないと思う。(実は、私自身が、実験が先で理屈は後、式だから、よく分かるのだが)
ただ、危ういのは世間の方で、大きな成果だけに憧れて、“ヒラメキの無い人達(私も含め)”が、真似て同じような手法で、“プロ的作業”をやり始めた時だ。くれぐれも、“プロ”になる限りは、闇雲に非効率な“下手な鉄砲も数打ちゃ当たる的な仕事のやり方”は、避けて欲しいと思う。
彼女の場合、優れた眼力と狙い所が的確だったので、良い結果が得られたのだが、もし誰もが乱雑にそんな事をやり始めると、日本全体の(限られた研究予算での)研究効率が物凄く下がるはずだからだ。(...とは言っても、世の中の流れを見ると、もう避けられないかもしれないが)
他方、この話で思ったのは、普段、私達生物の体内で恒常的に行われている「(食物や水からの)万能細胞の生成」とそれの「成長細胞への転換」のメカニズムが、今後、より実験的・分析的に解明し易くなるかもしれないという期待はある!
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